旧日本軍のお話(情報収集の凄さ)

南機関!ミャンマー軍の前身を作った独立工作機関

ビルマの英雄アウンサンの誕生には皇軍の特務機関が深く関わっていました。
秘密基地で軍事訓練を受けた「三十人志士」と言われるビルマ義勇軍の志士!

そして独立義勇軍の創設と独立への茨の道を共に歩んだ日本人がいました。

日本を苦しめたビルマ補給路

日中戦争で中国が強く戦えたのは、米英からの支援があったことも大きな理由です。
ヨーロッパ各国アメリカ中国市場における利権を守るため、

日中が戦争状態になると、こぞって蒋介石率いる中国国民党へ、物資と兵器の支援を行いました。日本は抵抗しましたが、第三国の公益の自由を盾とする米英は聞く耳を持たず、

フランス領の仏印(インドシナ半島)とイギリス領のビルマ(現在のミャンマー周辺)の2つのルートを中心に支援を続行しました。

大陸内部の残留シナ軍に対し、英軍が物資を公然と運び込んでいました。

日本軍が「援蒋ルート」と名付けられたこれらの補給路のうち、仏印方面はドイツに敗北したフランスから、1940年に軍進駐の許可を得たことで消滅しました。

しかしながら、残るビルマ方面は、戦争状態になかったイギリス領であり、ルートの無力化は難しいとされていました。

そこで、日本軍が発案したのが、ビルマ国内で地下に潜った独立派と連携し、反英闘争を支援する計画が練られていて、ビルマで活発化し始めた独立運動を利用して、地域ごと無力化する作戦を立案しました。

そして、日支紛争の収拾に目処がつかなくなる中、武器の道であるビルマ・ルートの遮断が最終的な目標である「独立運動の援助とルートの破壊」を目的に設立されたのが
南機関(みなみきかん)でした。

若き独立運動家を利用

喫緊の課題は支援対象となるべき独立運動家の確保ですが、すでに日本はある人物に目を付けていました。

それが、25歳の青年活動家アウンサンでした。
後に、ビルマ建国の父と呼ばれた逸材です。

当時は数多くの活動家のうちの一人でしかなく、日中戦争時はイギリスから指名手配を受け、日本に亡命中の身でありました。

1941年1月、陸軍は参謀本部付の鈴木大佐敬司(すずきけいじ)大佐へ、支援用の特務機関設立を命じました。

讀賣新聞駐在員・南益世(みなみますよ)を名乗る人物がビルマに入国しました。
記者という身分は偽装で、南益世の正体は、帝国陸軍参謀本部の鈴木敬司大佐(陸大41期)。入国の目的は現地の独立運動家と接触を図る為でした。

これが南機関誕生の経緯です。

鈴木大佐は1939年から蘭印方面(インドネシア住変)へ駐在を命じられ、翌年にはビルマ方面の情報収集に努めた南方通でした。

アウンサンの亡命も鈴木大佐の働きかけによるもので、まさにビルマ工作組織の長に最適の人物だと言えます。

機関長となった鈴木大佐は「南方企業調査会」の看板を掲げて大磯の山下汽船社長・山下亀三郎(やましたかめさぶろう)の別邸に設置されました。

発足後、始めに着手したのは人材の確保育成です。

なぜなら、ビルマ工作を成功させるためには、
アウンサンの部下となる多くのビルマ人が必要となります。

その為、鈴木大佐は当時友好国であった秦国(タイ)のサイゴンに前線基地を置き、
最大の抗英勢力であるビルマのタキン党から30人の活動家を海南島へ脱出させ、訓練を施しました。(のちの「三十人志士」)

訓練内容は、無線技術潜入技術戦闘のノウハウなど多岐にわたり教育を施しました。
また、アウンサン指揮官の適正に優れた活動家には、戦闘指揮の高等技術も教えました。

訓練は1941年半ばには終わりました。その後、アウンサンらはビルマへ戻り、日本の支援を受けつつ活動を始める準備をしていました。

一方で、ビルマ南方で同志を増やしつつ、主要都市のテナセリウム(現在のタニンダーリ)を拠点に各地へ運動を広げ、イギリス人をビルマ全域から追放しました。

当初の計画では、並行的に独立を果たし、援蒋ルートを破壊する予定でした。
しかしながら、これらの計画が実行されることはありませんでした。

対米英開戦の決定により、日本軍の南方進出が決定したのが原因です。

陸軍に協力したビルマ義勇軍

1941年12月8日の日米開戦で、イギリス領のビルマも日本軍の侵攻対象となり、
内部から崩壊させる必要もなくなりました。

アウンサンはビルマは我々に任せて、日本は影から援助する程度に止めてほしい」と鈴木大佐に願い出たとされていますが、鈴木大佐に作戦を変更させる権限はなく、南機関は南方軍所属の第15軍に組み込まれました。

ただ、日本軍のビルマ侵攻に先んじて、鈴木大佐はビルマ人で構成された特別部隊の編制を決定しています。部隊はビルマ人青年の志願兵で構成され、鈴木大佐は指揮官アウンサンは高級参謀となりました。

アウンサンらは1942年1月からの日本軍侵攻に合わせて攻撃を開始しました。
部隊の名前は「ビルマ独立義勇軍(BIA)」

現在のミャンマー軍の母体となる部隊は、こうして結成されました。

イギリス植民地軍の準備不足もあり、BIAは日本陸軍との共闘によって3月には早くも首都ラングーンを占領しました。
恐怖に覆われていた町は一転して歓喜に包まれました。演説が行なわれた広場は群衆で埋め尽くされ、BIAは歓迎の嵐で迎えられた。英国植民地の桎梏から解き放たれた瞬間であります。

この時、旗を掲げて演説した隊長は、ボ・ソオアウン。ビルマ独立史に大きな足跡を残す「三十人志士」の一人です。

数々の伝説と栄光に彩られた「ビルマ三十人志士」は、今も、そして永遠にビルマの英雄であり続けています。

また、注目すべきは、鈴木大佐が行軍中に、白いビルマ服姿で白馬に乗っていたことです。

現地には、「東方から白馬にまたがった王子がやってきて、国家を蘇らせる」という伝説が植民地化の直後から語り継がれていて、鈴木大佐がこれを利用することで民衆からの指示を得ようとしました。

こうした心理作戦は見事に成功しました。

開戦時には2000人程度でしたBIAには、次々と志願者が集まりました。
そして最終的には、2万人以上の大兵力に成長しました。

こうした日本軍と現地民の協力関係が、イギリス軍の駆逐をよりスムーズなものとしました。

裏切りに失望したビルマ人

しかし、日本とビルマが味方同士でいられたのは、これが最初で最後でした。

ビルマ解放が成功しますと、鈴木大佐は即座に独立させて現地民の指示を確固たるものにすべきと南方軍に打診しましたが、総司令部が選んだのは軍政による直接統治でした。

鈴木大佐は最後まで反対したとされていますが、最終的には本土へ左遷され、南機関は1942年7月に解散となりました。

独立の約束を信じて戦ったビルマ人は、日本の不義理に憤りを覚えることになりました。

ガダルカナル島撤退から1ケ月後の1943年8月に独立を許されましたが、日本に支配された事実上の植民地でしかなく、国防大臣兼国防軍総司令官に任命されたアウンサンですら、不信感を抱くほどでした。

その不信感は最悪の形で噴出したのが、1944年6月、インパールでの大敗を知ったアウンサンは、日本を見限り反日組織「反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)」を密かに結成しました。

1945年3月、日本からの要請で出撃したと見せかけたアウンサンは、部隊を止めてイギリス軍とコンタクトを取り協力を約束しました。

そして、進路を反転させ、日本軍へ銃口を向けたのでした。
鈴木大佐が築いた協力関係は完全に決裂し、アウンサンの蜂起でビルマ戦線は崩壊しました。

ちなみに、終戦後もイギリスはビルマ独立を許さず、アウンサンは1947年の暗殺事件で命を落としました。

跡を継いだウー・ヌらの闘争と交渉で、翌年にビルマ連邦として悲願の独立を達成しましたが、その後、軍部による独裁政権が続いてしまいました。

2015年には民主化運動が実を結び、アウンサンの娘のアウンサンスーチーがトップに就任しています。

では、南機関の活動は無意味だったかといえばそうではなく、鈴木大佐の尽力で育った活動家がビルマ独立を果たしたことも事実です。

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