日本軍のお話

チャンドラボースと日本軍「光機関」インド独立工作を狙った特務機関

光機関は、宣伝、政治学、外国語、無線のほか軍事訓練・尋問調査などを
将校は1年余、下士官は6ヶ月の教育を施し、諜報員を育てていました。

光機関の初期に活動した将校10名、下士官14名は全員中野学校出身者だと言います。
また、最終的には光機関の総人員は500余名にも膨れ上がり、
そのうち陸軍中野学校出身者は133名でした。

こうしてみると、いかに陸軍中野学校出身者が海外に与える影響が大きいかと分かると思います。また、中野学校での教育は質の高いものと言えます。

彼らは、インパール作戦前後からビルマで、主に諜報活動に従事していました。
作戦終了後は、南方遊撃隊傘下の各特務機関にゲリラ戦士として参加していました。

こんにちわ。
元自衛官のFXタマちゃんです。

FXのブログなのになぜ日本軍のお話?
と突っ込まれそうなので最初に説明しておきます。

初心者の方が、これからFXを始めるにあたり勉強をしていくと思います。
勉強する上で大切なことは良質の情報を集めてそれを実践、検証、改善を繰り返しながら身につけていくと思います。

そのような行程は古今東西どこの組織でも行われています。
特に、戦前、戦時時の日本軍(陸軍)は情報収集能力が高かったと言われています。

実際に自衛隊の戦術でも情報収集と情報の分析には重きを置いています。
そうした意味で情報の重要性を扱った事例を紹介出来たらいいなと思います。

ちょうど、僕の趣味で日本軍のエピソードを勉強していた時が少しだけありましたので、
その知識を通じて情報収集の大切さをお伝えできたらと思います。

また、日本は太平洋戦争では負けましたが、その舞台裏で数々の軍人が活躍し日本のために尽力してきました。
そんなエピソードを紹介できたらと思い、本記事を書いています。

大国イギリスの生命線

第二次世界大戦前後のイギリスが大国として成り立っていたのは、
インドを植民地化していたことが大きいと考えます。

イギリスは1757年に「プラッシーの戦い」で勝利を収め、インドの支配権をフランスから奪取しました。そして、「イギリス東インド会社」を通じ、アジア貿易の拡大と支配体制の盤石化に着手しました。

その結果、インドは「王冠の宝石」と呼ばれるほどの富を生み出すことになるのですが、
そうした利益が出せたのは、現地民への搾取差別不義理があったからです。

生産品の独占から始まり、言論統制武器保有の禁止などの弾圧を次々と行い
第一次世界大戦では、インド独立を約束して現地民を徴兵したにも関わらず、戦後はこれを履行しなかったのです。

こうした行為は現地民の反英感情を高ぶらせ、1857年の「セポイの乱」に代表される様々な民族闘争へと繋がりました。
太平洋戦争直前でも、反英独立運動はマハトマ・ガンジーらによって根強く続けられていました。

下図のとおり、インドはイギリスによる植民地支配に長年苦しめられ、独立運動をたびたび起こしていました。日本軍は対英勢力を育てるべく支援を行うようになりました。

もし、こうした運動を煽ってインドの独立を成功させることができれば、
イギリスは国力が大幅に衰退し、戦争の遂行力を失う可能性がでてくるのでは?

という考えから、日本軍はそこに目をつけ工作活動を行いました。
それが、陸軍の「光機関(ひかりきかん)」です。

インド工作の専門組織

対英戦争を想定したインドへの工作自体は、
すでに太平洋戦争開戦前から「F機関」が行っていました。

開戦直後にはインド人のみで構成されたインド国民軍の発足に成功していました。
こうした流れを受け継いで、F機関は南方全域の工作活動統率機関「岩畔機関(いわくろ)」に発足改組されました。

この時期はすでに南方制圧が終了間近となっていましたので、
事実上のインド専門組織だったと見てとれます。

陸軍省軍務局の元軍事課長・岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐を長として、本部を秦国(タイ)の都市サイゴンへ置いた機関の基本方針は、同年3月に東京赤坂山王ホテルにて開かれた「山王会議」で決定されました。

日本への亡命中のラス・ビバリー・ボースと国民軍司令官のモハンシン将軍を筆頭とする、
インド独立派や、アジア各方面の活動家が集まったこの会議により、
インド独立連盟の創設とインド国民軍の拡大強化が決議されました。

岩畔機関は会議の決定を重んじて、1942年4月から本格的な活動を開始しました。
シンガポールの支部からインド向けのプロパガンダ放送を続ける傍らで、
マレー半島のペナンでインド人兵士の養成学校を開きました。

ここでは戦闘技術以外にもスパイ養成の為の専門知識を教育し、訓練された兵士の中には、インド内部で工作員として活躍したものも少なくないといいます。

高圧的に接さず、同等として扱う機関員らの方針もインド兵の交換を招きました。
最終的にはインド国民軍は約3万人の兵を有する大部隊に成長しました。

岩畔は少将に昇進するとともに、内地へ帰還し、インドへの活動は順調なうちに、
後続組織の「光機関」へと受け継がれました。

日本に協力した独立強硬派

光機関を語る上で避けては通れない人物が、「チャンドラ・ボース」です。

ガンジーと同じくインド独立を目指す国民議会派の一員でしたが、
非暴力不服従を是とするガンジーとは違い武力闘争により、イギリス人追放を目指していました。

下図の左は、非暴力を訴えインド独立を目指したガンジーと右は、独立には武力闘争も辞さない構えだったチャンドラ・ボースです。

そんなガンジーとボーズですが、手段は不一致でずが、
袂を分かち合い、ボーズは1941年3月にヨーロッパへ向かいます。

この行動はイギリスを打倒すると見られていました、ナチス・ドイツの協力を得るためでした。ドイツは熱烈に歓迎したといわれていますが、積極的な支援は行いませんでした。

そんなボースに転機が訪れたのが1941年の10月末でした。
彼の評判を聞きつけた参謀本部の命令で、日本陸軍の山本敏(やまもとはやし)大佐が会見を求めました。

この山本大佐こそが、後に光機関の機関長となる人物です。
会見は1時間程度で終わるも、独立への熱意に溢れたボースに山本は行為を抱きます。

日本人をアジアの侵略者と捉えていたボースも、会見で考えを改めたといいます。
そして太平洋戦争開戦からの快進撃を聞くと、日本こそがインド解放を成すと信じ、協力を申し出たのです。

しかしながら、日本政府はボースを過小評価しており、山本からの説得を受けても、
1年以上も来日許可を出しませんでした。

政府が来日を検討し始めたのは、1942年末にモハンシンが国民軍内部の権力争いによって更迭軟禁されてからでした。

新たなインド人指揮官を求めた岩畔機関の意向もあり、ボースは1943年2月、ようやく日本行きが叶ったのです。

チャンドラ・ボースの黒子役に徹していた光機関

日本へ到着すると、ボースは積極的に各地で会見や演説を行いました。
また、嶋田繁太郎(しまだしげたろう)海軍大臣や外務省の要人らとも会談を行いました。

東条英機首相は当初会おうとしなかったのですが、1ヶ月後の会談でボースの人柄に惚れ込み、
冷遇を詫びると同時に協力を約束しました。

首相の指示を得るとボーズは南方へ赴き、山本が率いる光機関と合流しました。
7月4日、ボースはインド独立連盟の指導者となり、国民軍の総司令官にもなりました。

10月にはシンガポールで自由インド国民軍(INA)に改変され、ボーズは主席へと総司令官の座に就きました。

これらを支援するべき光機関は、1944年1月に「南方軍遊撃隊司令部」へ改変され、
それまでの育成支援から戦略指導部隊運営の助言などの戦闘支援へ切り替えられました。

光機関は日本軍とボーズ、インド独立運動連盟との橋渡しの役割を演じることになりました。また、光機関のリーダー達は独立連盟、国民軍が日本軍の傀儡色を印象づけないための演出にも腐心しました。

実際には、日本軍は岩畔時代と同じくボーズを軍事・政治工作の道具として使う意図でしたが、誇り高いボーズを傷つけない配慮から黒子の存在として、努めて表面にでないようにしていました。

ボーズの活動は、光機関の支援を受けて、順調に展開していきました。
独立連盟と国民軍も、大物指導者の下でインド独立に向け、両輪となって回転し始めました。
実際、ボーズの活発な活動と短期間での成果は光機関や日本軍の援助なくして不可能でした。

すべてを狂わせた大敗

最終目標は、INAをインドへ送り込む事でした。
すでにボーズの決起はインド全域に知れ渡り、各地で抵抗運動を始める者が出始めました。

そうした中で、INAを帰還させ、独立の気運を一気に燃え上がらせ、
インドからイギリスを駆逐させようと考えましたが、結局その目標は叶いませんでした。

原因は悪名高い「インパール作戦」です。
下図はイギリス軍に向けて進軍するボーズ率いる自由インド国民軍です。
独立に向け日本軍の侵攻に力を貸しましたが、インパール作戦の失敗でインド工作は下火になりました。

牟田口廉也(むたぐちれんや)中将が発案したこの作戦に対し、
インド帰還を急ぐボースは賛成の意思を示し、INAの一部を派遣しましたが、

結果は日本側が2万7000人の戦死者を出す惨敗に終わりました。
ビルマ方面からの進軍が不可能になるほどの大損害でした。

日本軍の協力を大前提とするINAに、単独でインドへ攻め込む力はなく、
海路での輸送も日本海軍の戦力激減で不可能となりました。

たった一度の敗北が、組織を変えつつ行われてきましたインド工作を終焉へと追い込んだのでした。

南方軍遊撃隊司令部はボースを支援し続けましたが、戦争は日本軍の敗北に終わり、
ボーズはソ連へ亡命しようとした矢先に飛行機事故で命を落としました。

しかし、彼の悲願であったインドの独立は、国内活動家の努力とイギリスの衰退により1947年8月に成就しました。

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