旧日本軍百話(本当は凄い)

ハルビン特務機関の凄腕スパイ活動!ソ連軍の内情は探られていた!

こんにちわ。
元自衛官のFXタマちゃんです。

FXのブログなのになぜ日本軍のお話?
と突っ込まれそうなので最初に説明しておきます。

初心者の方が、これからFXを始めるにあたり勉強をしていくと思います。
勉強する上で大切なことは良質の情報を集めてそれを実践、検証、改善を繰り返しながら身につけていくと思います。

そのような行程は古今東西どこの組織でも行われています。
特に、戦前、戦時時の日本軍は情報収集能力が高かったと言われています。

実際に自衛隊の戦術でも情報収集と情報の分析には重きを置いています。
そうした意味で情報の重要性を扱った事例を紹介出来たらいいなと思います。

ちょうど、僕の趣味で日本軍のエピソードを勉強していた時が少しだけありましたので、
その知識を通じて情報収集の大切さをお伝えできたらと思います。

また、日本は太平洋戦争では負けましたが、その舞台裏で数々の軍人が活躍し日本のために尽力してきました。
そんなエピソードを紹介できたらと思い、本記事を書いています。

勝敗を左右するスパイ活動

戦を進める上で欠かせない行動の1つが諜報活動です。
中国兵法書の孫氏は用間篇において諜報活動の重要性を明確に記しています。

現代風で言えばスパイ活動です。
敵地から様々な手段で情報を盗み、敵国内部にスパイを送り込んで内部工作により国力を疲弊させるのが一般的な任務(陸軍のみ)です。

そうすれば、自国で入手した情報で戦闘を有利に進めることができますし、敵国は国内の混乱で戦争どころではなくなります。

こうした諜報活動を日本で担っていたのが、陸軍や外務省の「特務機関」と呼ばれる組織なのです。

1885年、朝鮮半島での影響力を強化したい清国やアジア進出を目指すロシア帝国との海戦を危惧した日本は、陸軍の萩野末吉(はぎのすえきち)をウラジオストクへ駐在武官として派遣し、大陸やシベリア方面の情報を収集させました。

これが陸軍によるスパイ(諜報)活動の始まりと言われています。

日清戦争後には、陸軍の参謀本部が多数の情報将校(情報収集や謀略活動を任務とする役職)を満蒙(まんもう)地域(満州及びモンゴル周辺)とロシア国内で反政府勢力へ支援を行い、国力を衰退させた明石元次郎(あかしもとじろう)大佐の活躍は有名です。

こうしたスパイ(諜報)活動は日露戦争後も継続され、太平洋戦争直後には専門の特務機関が活動を任されていました。

その一つが、満州の都市ハルビンに設置された「ハルビン特務機関」です。

ハルビン特務機関のスパイ活動!満州の対ソ謀略組織

日本海軍がアメリカを仮想敵とし、作戦構想を練っていた一方で、
陸軍の仮想敵は終始ロシアとして警戒しており、その後、革命で対立したソ連でした。

当然と言えば当然の方針だと思います。そう考えれば日本という国は、常に他国との脅威と隣り合わせだったと言えます。

その中で、朝鮮併合と満州建国で国境は事実上地続きとなり、
ソ連の脅威は日露戦争時とは比較にならないほど高まっていました。

従って、最も長く国境を接する満州は、必然的に最重要地域となります。
陸軍が最も諜報に力を入れる事も必然となるわけです。

そのような状況でスパイ(諜報)活動が活発化したのは、「シベリア出兵」(社会主義政権の打倒を目指して日本とヨーロッパ各国が行った軍事行動)直前の1918年初頭でした。

当時の陸軍は、通常の戦い以外の活動も活発に行われていました。
なので、シベリアで正面戦闘の他
◆「情報収集活動」
◆「敵地への宣伝・混乱工作活動」
◆「日本に味方する勢力とのコンタクト及び育成支援活動」などの
スパイ(諜報)業務を戦闘区域で行っていました。

スパイ(諜報)活動と一言で言っても、これを実行する事はとても困難な任務なのです。
アメリカのCIAをイメージしてもらえたらいいと思います。

映画などで観るCIAのエージェント一人を育てるのにどれくらいの費用と時間がかかるのだろうか?
また、その一人が活動するのにどれくらいの支援体制が必要なのか?
などを考えると、おそらくかなりのコストと人件費がかかると想像できます。

さらに、対国・対組織なので自分たちの考えや計画通り進む訳もないと思います。

それらの問題をクリアするため、参謀部は司令官指揮下に専用の工作組織を置きました。
いわゆるPDCAサイクル高速化して、問題点・処置対策をすぐに実現し、
現地で活動できる体制を可能にしようとしました。
この時に設立されたのが特務機関の一つで、「ハルビン特務機関」でした。
(下図は当時のハルビン特務機関の建物です。)

その後、シベリア出兵が失敗に終わりますと、日ソ国交樹立でソ連国内の特務機関が閉鎖しました。
一方で、ハルビンをはじめとする満州方面の特務機関は、引き続き情報収集を続けました

昭和に入りますと、大陸での日本軍進出が活発化しました。
ハルビン特務機関は1914年4月に関東軍直属の「関東軍情報部」へと改編されました。

ハルビン、チチハル、奉天、アバカといった各地の特務機関は、その支部として組み込まれました。

こうして巨大化した諜報網は満州全域に広がり、最盛期には機関員が4000人を超えたといわれます。

ハルビン特務機関のスパイ活動と外国人部隊の設立

特務機関内には対ロシア人工作専門「白系露人事務局」が置かれました。
主な任務は、協力者の増加を狙った宣伝工作や機密情報の入手を行っていました。
また、手に入れた情報は「文書諜報班」が日本軍が考案した独自の分析方法と翻訳を実行していました。

これらは1936年11月に制定された「哈爾賓(ハルビン)期間特別諜報(哈特諜)」に基づく活動で、ソ連共産党から逃れてきた亡命ロシア人の協力を得つつ、ソ連総領事館の現役電信員も引き込み、かなりの情報を仕入れていたといわれています。
(下図は1934年、白系露人事務局設立時の様子です。ロシア人工作部門として設立されました。)

しかし、ソ連も特務機関の動きは察知していたようで、ニセ情報を掴まされることも多かったようでした。情報戦ではよくあることです。それは、日本軍の下士官の皆さんが職人技と言える緻密さでニセ情報と本物の情報を精査選別していました。

ただ、残念な事に手に入れて精査した貴重な情報も、諜報戦を軽視する関東軍上層部の不理解で、作戦に活かされることは少なかったみたいでした。

その一方で、成功を収めた活動もありました。外国人部隊の設立です。

満州には革命後のソ連から亡命してきた白系ロシア人が多数いました。
そうした反ソ連派を中心に1937年に設立されたのが、約250人のロシア人兵士で構成された「浅野部隊」です。

同年には下部組織の牡丹江期間が「横道河子隊」を、1944年にもハイラル北方の警備を担当する「コサック警察隊」も編成しました。

最大150人と小規模ではありましたが、満州国軍の正規部隊として1945年まで配備されていました。

また、ロシア人だけでなく、モンゴル人による部隊も編成されていました。
その部隊は第868部隊、通称「磯野部隊」と言われていました。

1941年9月に約800人のモンゴル人を集めて編成された部隊です。
目的はモンゴル方面の防衛と敵地でのスパイ(諜報活動)です。

当時のモンゴルはソ連の影響下にありましたので、日ソ開戦時の活躍を期待されていました。しかし、対ソ戦の可能性は日ソ不可侵条約締結によって事実上なくなりました。
2年以上も外蒙古(ゴビ砂漠の北側)で飼い殺し状態となってしまったのです。

1943年にようやく移動が命じられたが、行く先は中国東北部の興安で、部隊名は「第53部隊」に変更しました。
翌年には、関東軍へ転属となって「第2遊撃隊」として満州西方の防衛に就かされました。

ただ状況に振り回されはしても日本を裏切ることはなく、1945年8月のソ連侵攻で松浦友好少佐に指揮され果敢に戦っていました。

そして特務機関が考案した中で、最大規模の作戦が「K号工作」でした。
日ソが開戦したらニセのソ連軍警備艇を使い、工作員をソ連兵に変装させて、アムール川の鉄橋や川沿いの施設を爆破するという壮大な計画でした。

作戦は結局中止となりましたが、実行されていればソ連戦の推移も少しは違っていたかもしれません。

ハルビン特務機関のスパイ活動の終焉

ハルビン特務機関は数ある特務機関の中でも活動期間の長い組織です。
それ故に戦史で名を残した名将・謀将には機関出身者が少なくないのです。

東条英機の後任として総理大臣となった小磯国昭(こいそくにあき)
満州事変の立役者の一人であった土肥原賢二(どいはらけんじ)

そしてポツダム宣言受諾後に千島列島へ攻め入ったソ連軍を食い止めた樋口季一郎(ひぐちきいちろう)など、

彼ら全員、ハルビン特務機関の構成員か機関長を経験していたのです。
(下図左:機関長を務めた樋口季一郎 下図右:その上司でのちの首相になる小磯国昭)

まさに、日本の調略面における最古参と呼べるハルビン特務機関でしたが、
1945年8月9日のソ連参戦とその後の満州制圧でその歴史に幕を閉じました。
モンゴル人部隊はソ連軍の数に押し負け戦線離脱を余儀なくされまして、白系ロシア人部隊も再結集したものの、関東軍にソ連軍と間違えられて、誤爆により全滅するという悲劇的な週末を辿っています。

ただ、彼らの活躍で戦線を維持できることだできたと個人的には考えています。
それは日本人の緻密で真面目さが当時の情報活動を有益なものにしてくれたのだと思いますし、
下士官と呼ばれる、いわゆる平社員的な存在の方々のおかげで日本という国は最後まで戦い抜いたと思います。

そういう意味では、この国は現場で活躍する人たちによって支えられていると考えられます。
そのような方々を支える法律をもっと作ってほしいものです。

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