日本軍のお話

インド独立に寄与した日本人!F機関の藤原岩市少佐!

1942年2月、日本軍によるシンガポール陥落の翌々日、
ファラパークに集められた英印軍のインド兵捕虜約5万人は、F機関長の藤原岩市少佐(最終階級は中佐、戦後陸将)のスピーチに歓喜しました。

「日本軍は、インド兵諸君が祖国解放のために忠誠を誓い、インド国民軍への参加を希望するならば、捕虜の扱いを止め、諸君の闘争の自由を認め、全面的支援を与える」

これに応じた1万数千人は後のインド独立運動の中核となりました。

こんにちわ。
元自衛官のFXタマちゃんです。

FXのブログなのになぜ日本軍のお話?
と突っ込まれそうなので最初に説明しておきます。

初心者の方が、これからFXを始めるにあたり勉強をしていくと思います。
勉強する上で大切なことは良質の情報を集めてそれを実践、検証、改善を繰り返しながら身につけていくと思います。

そのような行程は古今東西どこの組織でも行われています。
特に、戦前、戦時時の日本軍は情報収集能力が高かったと言われています。

実際に自衛隊の戦術でも情報収集と情報の分析には重きを置いています。
そうした意味で情報の重要性を扱った事例を紹介出来たらいいなと思います。

ちょうど、僕の趣味で日本軍のエピソードを勉強していた時が少しだけありましたので、
その知識を通じて情報収集の大切さをお伝えできたらと思います。

また、日本は太平洋戦争では負けましたが、その舞台裏で数々の軍人が活躍し日本のために尽力してきました。
そんなエピソードを紹介できたらと思い、本記事を書いています。

インド独立に寄与した日本人!イギリスの植民地アジア

太平洋戦争前後、イギリスは世界各地に植民地を持つ超大国でした。
アジアのマレー半島、ビルマ(現ミャンマー)、インド、インドネシアの一部と香港など、
多くの地域と島々がイギリスによって植民地化されていました。

また、イギリスによる抑圧的な政策に現地の人々の不満は高まっていました。

そこで、アジア圏の共存共栄(八紘一宇)を掲げる日本軍は、
これらの地域奪取を日中戦争時の日本軍の南方作戦における主目標として掲げていました。

日本軍は、対英勢力への支援を目的とした工作活動を実施するための組織として、
また、具体的には独立運動の支援を行い、対英戦を有利にするために、
スパイ活動を目的とした諜報機関「F機関(藤原機関)」を誕生させました。

F機関の機関長に任命されたのは、藤原岩市(ふじわらいわいち)少佐です。
藤原少佐は元々、参謀本部第8課で宣伝広報を担当していました。
(下図の写真)

(下図、右の、立って両手を後ろに回しているのが藤原少佐、ちなみに机の上に両腕を置いてイギリス側を睨んでいるのが山下奉文将軍)

対英工作活動の為に白羽の矢が立ったのは、1941年9月18日に、
参謀総長の陸軍大将・杉村元からバンコク行きを命じられたのがきっかけでした。

ちなみに、この時点で藤原少佐にスパイ(諜報)活動の経験はありませんでした。
しかしながら、「やれ」と言われればどんな事をしてでも愚直に任務を遂行するのが日本人の気質です。

藤原少佐は、既に、同地で対英調略を進めている秦国(現タイ)駐在武官・田村浩大佐を補佐して、アジア方面の独立運動を支援するというのが任務を遂行するために現地入りをしました。

経緯としては、命令の前年には日本へ亡命していた「インド独立連盟」(IIL)の活動家3人をバンコクへ輸送する任務を行っていましたので、そこで築かれた反映勢力との繋がりを評価されての任務だったとされています。

ともあれ、命令から11日後に、藤原少佐は支援機関を組織してバンコク入りを果たしました。
この時に、F機関が設立されたわけですが、当初は藤原少佐を入れても総勢8人という小組織でしかありませんでした。

ただし、小さな組織とはいえ、任務自体は
◆IILとの協力交渉
◆華僑(中国本土以外に住む中国人)工作の支援
◆対英開戦を想定した後方かく乱の準備
など、決して小さな任務ではなく、むしろ国の運命を左右するような重要任務でした。

中でも、最も効果を発揮したのが、日本に不信感を抱いていたIILへの工作活動です。
1941年10月に藤原少佐はIILのプリタムシン書記長と会談したのですが、日本に対するインド側の反応は冷淡だったそうです。

なぜなら、彼らは満州や中国における日本軍の行為を侵略行為ととらえており、
仮にイギリスを追い出しても、日本が新たに征服者になることを危惧していました。

さらにプリタムシン書記長は藤原少佐に、「一般市民も味方しないだろう」と忠告も与えています。

しかしながら、藤原少佐は「大陸での行いは反省すべき」と認めた上で、
日本の目的はアジアの共存共栄であって、断じて制服が目的ではないとして、
根気強く交渉を続けました。

日本軍の真意はどうであれ、藤原少佐のそういった粘り強い説得の甲斐もあってプリタムシン書記長は考えを改め、「日印共存の為、団結すべき」と日本軍への協力を決定しました。

このとき結ばれたIILとの協力関係が、その後の南方作戦を大きく左右することになります。

インド独立に寄与した日本人!賊ハリマオの活躍

日米開戦で南方作戦が開始されますと、F機関はIILと共同で日本軍のマレー侵攻を支援することになります。

ここで大きな働きをしたのが、マレー半島で盗賊団を率いていた日本人の谷豊(たにゆたか)です。
(下図のとおり)

谷はマレー半島へ移民した日本人の一人でしたが、徴兵制検査で一時帰国している間に華僑の起こした暴動で現地の妹を失い、盗賊団を組織しイギリス人や中国人相手に暴れまわった経歴かを持ちます。

一説によると、谷が率いたマレー人盗賊団は300人以上だったとされます。
マレー人は襲わない義賊ぶりから「ハリマオ(虎)」の異名で知られていました。

そうした活躍は日本軍の参謀本部にも届いており、対英工作に利用したいと考えられていました。
そのため、太平洋戦争開戦前に監獄に拘束されていた谷を、陸軍が派遣した神本利男(かもととしお)が救出しました。
(下図のとおり)

その後、谷はF機関の下で、情報収集と後方かく乱に従事しました。
中には爆弾の解体など、盗賊団時代にやっていたこととは逆の仕事も行っていました。

なお、谷はマレー作戦終了前後の1942年3月半ばに病死しています。

谷が活用する一方で、藤原とIILはイギリスに徴兵された植民地軍(イギリスインド軍)のインド人離反工作を行っており、宣伝工作によって多くのインド人兵士を帰順させることに成功しています。

主な方法としては、敗走中の部隊との交渉空中からのビラ散布友軍に変装した工作員による扇動が多かったといいます。

こうして集まった兵は、彼らと同じく日本に投降したモハンシン大尉の指揮で、占領地の治安維持に当たりました。

この引き抜き工作が、現地の守備隊から兵力を緩やかに奪っていったことは間違いないです。
そして1941年12月、藤原少佐、プリタムシン書記長、モハンシン大尉の3人で開いた会議の中で、機関の次なる段階への移行を決定しました。

すなわち、帰順したインド人兵士による義勇軍「インド国民軍」の設立です。
ただし、投降兵による部隊設立は日本兵の警戒も招きかねないと懸念されたことから、設立はするが公表は控えることで意見は一致しました。

軍司令官や参謀らの説得が大体終わり、部隊が認知されたのは1942年3月のことです。
この頃には、シンガポール基地陥落で約5万人ものインド人兵士が捕虜となっていました。

兵力増強のチャンスに直面した軍は、国民軍への参加希望者には食料と物資を支援すると発表しました。

すると捕虜はこぞって入隊を希望し、最終的に部隊は、数万人規模の兵力を擁する大軍へと成長していきました。

まさにF機関の活動は大成功に終わりました。

難攻不落と言われたシンガポールの陥落でF機関とIILは本部を同地に移転しましたが、4月29日の藤原少佐に対する本土への帰還命令で組織の活動はそこで終了となりました。

そして、その後におけるスパイ(諜報)活動は、「岩畔(いわくろ)機関」と「光機関」に受け継がれることになりました。

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